有限会社パンズ

黒ヒョウ社長のブログ

戦争を知らない大人たち2

2002-03-04 14:03

暗い気持ちにしかならなかった”戦争”という2文字が少し明るい気持ちで捕らえられるようになったのは昨年の夏、足を骨折して入院している時の出来事からでした。


私は中央のベッドだったが左右に入院していたのはともに74歳と71歳の高齢者の方で、私の持っていた大きな疑問 ”戦時中?戦後に起こったいろいろなこと”に対して率直になんでも教えてくれました。1人のかたは今でも当時の陸軍で一緒だった連中と1年に数回同窓会を開いているそうです。わたしが涙をためながらもう1人のかたの話を聞いたのは、朝早く、そのかたがいつも5時頃から聞いているラジオを聴き終わってベッドに戻ってきてからのことでした。「今朝のラジオはとても感動して朝から涙を流して聞いていました。犬飼さん聞いてもらえますか?」ということなので私としては是非聞きたいと、その方から「足長おじさん」の話を聞いたのでした。その話は簡略すると、現在日赤病院の婦長さんを務める方へのインタビューで、幼少の頃=戦後に自分の身に起こった米海軍の艦長さんとの出会いが自分の人生を変えた、というお話。
佐世保に米海軍の軍艦が到着、通常なら船員は街へ繰り出してやりたい放題、という場面だったそうですが、その艦長は一切街へ繰り出すことを許さなかったとの事。そして自ら地元の小学校をみてまわった時、1人のみずぼらしい格好をした少女に目を留め、その学校の校長先生に「あのコは私が一生面倒を見ます。これから彼女が大人になるまでずっと校長先生に送金しますから彼女に不自由のないようにお願いします。そして私から送金があることは絶対に教えないで下さい」米軍艦長はこういったそうです。その少女は戦争で親をなくし、着る物も履く物もまともなものは一切なかった状態だったそうです。米軍戦艦が佐世保を発った後、小学校には大量の衣類と食料が届いたそうです。それは船員さんたちが持っていたものを置いていってくれたのでした。それから少女は立派な大人に成長するのですが、校長先生が他界する時、「伝えておかなければいけないことがある」と言って彼女に初めて十数年前の話をするのでした。驚いた彼女はその艦長が今どうしているのか調べ上げ米国でその元艦長さんに再会。その時の船員も生きている人たちは全員集まってくれて彼女との再会を喜んでくれたそうです。彼女は「これからは人のためになる仕事につきたい」との一心で看護婦になったそうです。そして今は婦長さんをしています。大体はこのような内容だったのですが、この話を聞いてアメリカ人の懐の深さ、を見たような気がしました。長崎に原爆を落としたのは米国ですが、アメリカ人の中にも(罪悪感から)心を痛めていた人が大勢いたんだろうなあ、と感じました。
今の時代は自己中心で、自己保身を考えることが多いように思いますが、「自分ができる範囲でできる限りの事をする」という意識を深く刻むことができました。去年の秋の出来事のお話でした。